Mother

コラム

母に電話をかける。

去年の夏にはまだ、母から電話がかかってきたが、今はもう、母は自ら電話をかけることができない。

いつ、電話を受けることができなくなるかわからないから、私が毎日電話をかける。

 

母がいつから小さくなってしまったのか。

長い間、一人暮らしをしていて、時々私が帰ると料理を作ってくれていた。

いつからか、味が変わってしまった。

母が焦がした鍋がいくつも放置されていた。

 

私はそばにいなかったので、母の変化がわからなかった。

あるとき、入院したから来てと電話がかかってきた。

入院はこれまでも何度かしていたが、むしろそんなことで来なくていいよと言う母だったので、驚いた。
当時、飼っていた犬の調子が悪くて、できれば私は犬のそばにいてやりたかったけれども、泣きながら「ごめんね、お母さんが待ってるから帰るね」と言って、帰省した。

母は、その入院で認知症になってしまった。
体の病気が治るころ、すっかり私が娘であることを忘れていた。

 

「もう、一人では置いておけない」と思った。

母と実家で暮らすかと考えていたとき、サービス付き高齢者住宅を紹介してもらった。

母が87才のことだった。

私を娘と認識しない母と、入居の契約をして、カーテンを選んだり、洗濯機やテレビを買いに出かけた。
買い物の帰りに喫茶店で話していたら、私のことを叔母と間違えていた。

 

それでも、母はしばらくすると、また元の母にもどって、私が娘だとわかるようになったし、デイサービスも「年寄りばかりだ」と嫌がっていたけれど、行けば友達もできて、ムードメーカー的な存在になった。

 

犬は、よろよろと生きていてくれたけれど、私が母をサービス付き高齢者住宅に入れて自宅に帰ってから、しばらくして虹の橋を渡った。

夜中の2時から5時前まで、膝の上で抱いて、そのまま亡くなったので、悲しかったけれども後悔はなかった。

母は90才を施設で迎え、ますます元気にしていたが、91才になってからだろうか、徐々に心も体も衰えて来た。

私はやはり遠くに住んでいて、年に何度かしか帰れなかったから、ゆっくり進む母の衰えを深刻に考えていなかった。
自分で歩いていたし、食欲もあって、物忘れすると言っても認知症のそれのようには思えなかった。

しかし、お風呂は、自室のお風呂に一人で入ることが許されなくなり、体も小さくなってはきていた。

 

そのように徐々に老いながらも、私の記憶では、今年の3月までは、以前の母だった。


話は少し戻るが、去年の夏ごろのことだ。母が毎日、日に2度も3度も電話をかけてきては、部屋に泥棒が入ると言ってくるようになった。

私は根負けして、何もなくなっていないことを証明するために、母のところに戻って探し物をすることにした。


母には、そういう物を盗られたという妄想はあっても、その他の会話などは普通だった。

「無くなって困るものは、私が預かって帰るから」というと、案外とすんなりと渡してくれた。


そんな去年の夏から、私は故郷に帰ることを考え始め、今年の1月から動き始めた。

3月。不動産会社に母と一緒に行って、帰りにとんかつ専門店でとんかつを食べた。
母が食べ残すのではないかと心配していたが、そのときは普通のスピードで、ぺろりと食べた。
歩くのも杖をつきながら歩くことができたし、タクシーを使って出歩くのなら、まだどこにでも行ける様子だった。

実際母は、眼科も歯科も美容院も、タクシーで一人で行っていたのだ。

 

しかし、4月から様子がおかしくなった。

だるい、しんどいと言い出すと、起きて座っていることができなくなった。


母が、瞬間前のことを忘れて驚いたのはいつ頃だったろう?
叔母が無くなって、お葬式に出るための喪服を実家に取りに戻った時だったから、あれも去年の夏ごろだっただろうか。

ふだんの会話が普通にできるから、特に痴呆が進んでいるとも思っていなかったのだが、しんどいと言い出した今年の4月くらいから、「今話そうと思ったことを忘れる」ということがたびたび起こるようになった。

そうして、だんだんと「私の頭が悪くなっていく」と言い出した。たぶん5月くらいからじゃないかな。

私は夫の定年退職を機に、毎月、何日間も母のところへ行けるようになっていたので、母がついさっきのことを忘れたり、今話そうと思ったことを忘れたり、私に何かを説明しようとしてうまく言葉が出ないうちに何を話していたのかがわからなくなるという状況に立ち合い、何度も母自身の言葉で、「何を言おうとしていたのか忘れた。私の頭の中がぐちゃぐちゃだ」と言うのを聞いた。


そして今日、8月29日、母は電話に出たとたん「こんなこと聞かせたら可哀そうやけど、私もうあかんと思うわ」と宣言した。

母いわく、何もかも思い出せなくなって、頭の中がぐちゃぐちゃ。もうこれは元には戻らないと思うということだった。

そして、自分がこんな状態で死んでしまうのは情けないということ。
自分が死んだら私(娘)が一人になってしまうのが可哀そうだと思うこと。
自分は今まで、幸せに生きてこれた!

そんなことを話してくれた。

母は私のこともだけれど、夫のこともいつも「どうしてる?」と聞いてくれる。
今日も聞いてくれたので「あっちでテレビ見てるよ」と言うと、「良かったね」と言ってくれた。
「今まで働いて来たから、休ませてあげんとね」と。


母は、認知症かもしれない。心療内科の先生は、中程度の認知症だとおっしゃる。
でも母は、まだ母の部分をたくさん残してくれているのだ。

認知症の人といえば、自分のこともわからなくて、徘徊したりしているような人のことを思い浮かべるけれど、母はまだそんなふうではないのだ。

自分の頭の中がおかしくなっていると、自覚しながらおかしくなっていってしまうという恐怖を味わっているのだ。

「できるだけそばにいてあげたい」と、だから「故郷に帰ろう」と思っているが、まだ準備が整わないでいる。

先生のみたてでは、あと1年~2年で言葉を失ってしまうとのことだった。

私は、時間と競争している。

できればそのように進行しないで欲しいと思う。

 

 

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