愛って何だ?

最近ずっとこのフレーズ、「愛って何だ?」が頭の中でリフレインしている。
昔、緒形拳主演でこのフレーズをタイトルにしたテレビドラマがあったっけ。
男のわがままを描いた、救いのない話だった。
いや、私はそんな昔のテレビドラマの話をしたいわけではない。
私の今生のテーマが「愛」であると言われたので、考えているだけだ。
しかも、私は前世からこのテーマを引きずっているらしいのだ。
きっと問われている愛は名詞の「愛」ではなく、動詞の「愛する」だろう。
私の人生の課題は「愛する」ということなのだ。
ふむ。
「あなたの課題は、愛することです」と言われたら、それは「今、あなたは人を愛せていないですね」と言われているような気がするではないか。
私はドキリとする。そして「それは私だけの課題ですか?」と問い直したくなる。
「私だけが、人を愛せていないわけではないですよね?
みんな、人を愛せているの?」
そう言いたくなるのは、私が人を愛せていないからにほかならない。
確かに、私の今生の課題は「愛すること」だ。
ふたたび、私の思いは先の問いに戻る。
「愛って何?」
愛とは、人を思いやるというだけではないし、人の気持ちに共感することだけでもない。
もっとのっぴきならないものではないかしら?
私の友人で、今外国に住んでいる人がいる。
もしも戦争などで、私が日本にいられなくなるようなことがあったら、自分が住んでいる国においでと言ってくれている。
愛とはそれくらい、のっぴきならないものだと私は思う。
立場が逆になったときに、彼女が私を頼ってくれるかどうかはわからない。
彼女には私よりずっと頼りになる友達がたくさんいるだろうから。
でも彼女が助けてと言って来たら、いつでも助ける用意はある。
そんな特別な愛を、誰にでも、見ず知らずの人にも持ちなさいと言ったのはイエス・キリストだ。
善きサマリア人のようになれば、永遠の命が得られると言われた。
※「新約聖書 ルカによる福音書10章25節~37節にある”善きサマリア人のたとえ”より」
そこでまたふと思う。
強盗に襲われて、道端で死にかかっていた人を助けたサマリア人は、友人が私に、私が友人に持っているような愛情があって、その人を助けたわけではない。
愛は感情ではなく、行為なのか?
感情が伴わなくても、親切な行為をするだけで良いなら、容易なことのように思える。
いや、愛の感情なしに、親切な行為をすることは難しいだろう。
見ず知らずの人に、愛情を持てるだろうか?
愛情を持てない人に、親切な行為ができるだろうか?
誰でも彼でもに愛情を持てるだろうか?
好きになれない人のことを、少なくとも「その人を思いやって、親切な行為をする」というくらいまで自分の気持ちを「好き」に寄せていくことが、もしかしたら愛かもしれない。
「好き」は感情だから、無理に好きにはなれないけれど、好きな人に対するのと同じように思いやることまでは、できる。
そういうことかな?