悟りたければ空を見よ

お釈迦様が王家を出て、森に入って瞑想したからかもしれないが、どうも人類は、悟りを開くのに人里離れたところに行って、食うや食わずの状態になって、瞑想することが必要だと考えているふしがある。
キリスト教でも、修道院に入って、私有財産を捨てなければならない(正確には、修道院に寄付しなければならない)。
自分の物はマグカップ一つ持ってはいけないのだ。
そうすることで、悟りが開ける。
暑い中、寒い中、冷房や暖房をつけない。
そうすることで、悟りが開ける。
いや、キリスト教では悟りとは言わないのかもしれないが、欲から解放されることで、天国に入りやすくなると考えられているのだろう。
でも私は、何も持たないことで物欲から解放されるとは思わない。
むしろ、あれも欲しい、これも欲しい。
せめてマグカップくらいは自分の物にしたいと思って、かえって物欲を刺激するのではないかと思う。
僧院や修道院で、暑い中クーラーもつけず、寒い中暖房もつけずに過ごす理由は、きっと「昔は、そんな設備がなかったから」というものではないかと思う。
キリストや、お釈迦様が過ごした状況こそがベストであって、それを少しでも過ごしやすくするなんてことは、よろしくないということだろう。
しかし、暑さや寒さに耐えたところで、それで悟りが開けるだろうか?
むしろ身体のあれこれが気になって、気が散って、悟りどころではないのではないかと思う。
悟りとは、何事にも執着しない心のありようのことだ。
だから、暑くもなく、寒くもなく、空腹でもなく、満腹でもなく、何一つ禁じられていない状況の中で、得られるものだと思う。
私有物を持ってはならないと言われれば、持ちたくなる。
結婚してはならないと言われれば、結婚したくなる。
それが人間というものだからだ。
もしも悟りたければ空を見よ。
空を飽きることなく見ていれば、自然に中庸(ちゅうよう)な心持になれる。
苦行などは必要ない。